国際教師の日によせて(小学校編)

こんばんは。まつのです。

 今日(10/5)は国際教師の日ということで、何か書こうかと思ったのでここに至ります(21:42)。

 なんとなく回想的な内容なので、その一部と思っていただいて支障はないです。

 というか、あまり区別する気も最早ないです。

 今回はこれまで思い出に残った先生について書いていきます。それだけの内容です。

 胸糞悪い話もあります。

 

小学2年生の時の担任の先生(その1)

 「その1」があるなら「その2」はあるのかと思うかもしれないが、その通りである。恩師に序列をつけるような書き方であり失礼かもしれないが、便宜上順番をつけるために「その1」「その2」とすることにする。

 私の小学2年生の頃の当初の担任の先生である。

 その先生の授業の思い出はあまりないのだが(失礼)、教室に2台のワープロをおいてくださっていた。その当時(2000年代前半)はPCがある家庭も珍しく、PCに触れることができるのは学校のコンピュータルーム(パソコン教室)と決まっているようなものだった。(しかも、ブラウン管のWindows95だった。なつかしい。)

 しかし、教室にはワープロがあった。当然オフラインのものではあるが、ワープロとPCの区別もつかないような時分の私たちからすると、「コンピュータにさわれる」というのはとてもうれしかったし、私も休み時間には真っ白な画面に文字を打ち込んでいた。多くは意味をなさない文字の羅列だったが、良い思い出である。

 私があまりにも気に入っていたということで、個人懇談の時に先生が私の母に「ぜひコンピュータに触らせてやってほしい」とお話ししていたそうだ。

 それが端緒となったかどうかはわからないが、そこから18年後、こうして文章をPCで書いている。

 今でこそ「GIGAスクール構想」とやらで児童生徒一人ひとりにタブレット等の機器が保障されているが、当時からするととても珍しい光景であったに違いない。

 他のクラスの友人の「いいなぁ」という視線は受けていたようにも思う。

 とにかく、ありがたい経験だった。

 

 ほかにも、様々なことを「経験だ」として許してくれる先生だったと思う。実際、直接そう言った記憶はないが、そういうメッセージを感じた。

 虫を教室内で飼うことは普通なことだと思うが、私たち子どもは「毛虫を飼いたい」と言い出した(私にその記憶はない)。それも「いいよ」と快諾したそうだ。

 そして、教室の後ろのロッカーの上に黄色と黒のタイガースカラーの毛虫数匹と、桑の葉が入った飼育ケースがおかれた。みな「毛虫は大きくなったら何になるのだろう?」と楽しみにしていた。なお、元来毛虫が苦手な私は近づかなかった(好きな人はいるのだろうか)。

 

 そこで事件は起きた。まぁ、然るべくして起きたのだが。

 かゆい。体がかゆい。そう訴える児童が現れ、瞬く間に急増した。もちろんそこに私も含まれる。

 脱走した毛虫に刺されたのである。私は頭以外のほとんどに水膨れのようなものができて腫れ、痒かったことを覚えている。

 「学校で毛虫を飼うとは何事か」と一部の保護者が学校に訴え、教室内の毛虫は一掃された。それだけでは飽き足らず、それに加えて学級崩壊を放置したとしてその責任を追及し、その保護者が発起人として学級の保護者に「先生の解任を求める署名」を集めたのである。

 その怒りやすさまじく、とても「反対」といえる雰囲気ではなかったそうだ。ほぼすべての保護者の署名は提出された。今となってはただそれだけのことなのだが、先生からすると保護者から「クビ」を宣告されるわけである。(もちろん、今の自分であれば何が何でも止めていると思う)

 とてもまともな精神状態ではいられなかっただろう。

 一学期の終わりの近づくある日、先生がいなくなった。

 あとになって聞いたことだが(2021年)、その前日、家庭訪問に行く途中で学校と音信不通になったのだという。ある保護者が「先生が時間になっても来ないのですが…」と学校に電話したところ、学校からは「あぁ、お宅もですか…」と言われたそうだ。

 私は「先生は体調不良で入院した」としか聞いていなかったが、そのような裏があったと十数年後に聞いて大変驚いた。

 教室から去ったのは毛虫だけでなく、担任の先生もだった。

 

 その後、その先生はタクシードライバーになったという。

 ただ一人(かどうか定かではないが)「賛成」しなかった保護者から聞いたことだ。その家は当時商売をしていた。

 その保護者が賛成しなかったことは先生の耳にも入ったのだろう。後年、「あの時はありがとうございました」とわざわざ先生がお客さんとして現れたそうだ。その当時は「毛虫事件」があり、学級崩壊もしかかっていてとてもつらかったと話していたらしい。そこに追い打ちをかける署名である。心中穏やかであるわけがない。

 「収入は減ったけど、充実した生活を送っている。今の仕事は楽しい」などと話し、店から出ていったそうだ。

 一連の「毛虫事件」、その前後の学級崩壊傾向が問題視された先生ではあったが、自分にとってはICT機器に触れるきっかけをくれた素晴らしい先生であったと思う(私物のワープロだったのだろうが…)。「毛虫事件」だって、ともすれば私たちにとってかけがえのない学びになっていたと思う。

 どうか、フラッシュバックなどが起きず、幸せな人生を歩まれていることを願うばかりである。ありがとうございました。

小学2年生の頃の担任の先生(その2)

 一連の「毛虫事件」のあと、夏休み明けの2学期から新しい先生がやってきた。

 大学を出たばかりの先生だったと記憶している。2000年代初頭は教採の倍率も高く、講師登録をしてもなかなか仕事がなかったのだろうか。

 とはいえ、そんなことは露知らず、私たちは「ワープロは?」と聞いていた。

 いろんな意味で「え?」と思われていたことだろう。

 

 その先生は、先生でありながらも年が若く、「若者とは(大学生とは)」ということを教えてくれていた気がする。この先生も授業面はあまり覚えていないのだが、「この間の飲み会は楽しかった」とか、「仲間との旅行で酔いつぶれて下呂(誤変換です)火山をやらかした」とか、なぜかお酒で失敗したことのお話が多かった。

 学生のノリである。楽しむときは楽しめ、ということだったのだろうか。

 今となってはその話題が良かったのかどうかはわからない。当時はなんとなく「先生でも失敗するんだなぁ」と思っていたし、近年は私が飲み会に行くと、ふとその話を思い出すことがあった。そのためか、私が飲み会でつぶれた経験はそう多くない。自慢ではないが、記憶を飛ばしてしまったこともないし、今後もないと思いたい。

 酒は飲んでも飲まれるな。

 そんな楽しげな先生ではあったが、新人だったこともあり、荒れ放題になっていた私のクラスを立て直すのは容易ではなかった。ケンカにいじめにおしゃべりに。授業にならなかった。私も大変な迷惑をおかけした。

 結局同級生たちはいうことを聞かず、怒声の響いていることが多かったように思う。

 3月になっても落ち着くことはなく、なぜ落ち着いたのかもわからない。なんとなく「このままやったらあかんよな…」という思いはあったのだが、あまり覚えていない。

 その先生との別れはよく覚えていないが、年度末を迎える前に去っていったらしい。やはりというのもどうかと思うが、心身の故障があったのだという。

 あまり時間は多くなかったが、野球の話をしたことや、同級生に隠された消しゴムを一緒に探してくれたこと、帰りが遅くなると家まで送ってくれたことなど、大変お世話になった。というより、ご迷惑をおかけした。

 その後どこで勤務されていたのかはわからなかった。

 

 再開したのはそれから14年後の秋、私が大学院1回生の頃だった。

 私は学会の一環で京都府内のとある小学校の研究発表会に訪れた。

 その際の書記役をしていたのがその先生である。厳密には、隣の学校から応援に来られていた。

 名前も姿も一致した。休憩時間に恐れ多くもご挨拶に伺った。

 「ああ、よく覚えているよ」「あの時は初めて受け持ったクラスだったから、本当に思い出深い」とのことだった。それまでおかけしたご迷惑をお詫びするべきであったのだが、口をついて出てきたのは「あの時は本当にお世話になりました」だった。そこからの私の経歴をお話ししたいところではあったが、惜しくも休憩時間はおわり、閉会後私も大学に戻らなければならず、あまり多くは話せなかった。

 もっと多く話したかった。

 私はいま、放課後等デイサービスで働いている。子どもと関わるし、学校ほどではないにしろ保護者とも毎日お話しする。学校の先生ともお話しする機会も少しはある。

とりあえず終わる

 正直、ストレスしか溜まらない。

 仕事に貴賤はないというが、学校の先生はもっとストレスフルかもしれない。

 私がこれまで述べてきた先生は、結局ストレスにより学校にいられなくなってしまった。

 だからといってどうすることもできないし、過去は変えられない。

 極論ではあるのだが、私はそんな先生を知っているから、きっと明日も連携先の学校で、心から「先生、ありがとうございます。おつかれさまです」といえると思う。当然そうでなくとも心からそう言っている方も多くいるだろう。

 放課後と休日の少しでもいいから、子どもを預かり、そこで成長させることができるなら、それはそれで「学校現場を支えている」といえるかもしれない。

 私はこれからどれだけの期間、今の仕事を続けるかはわからないけれど、自分のできるところから「教員一人ひとりを幸せに」していけるように出来たらよいと思う。

 

 本当はここから先も続けたいが、「世界教師の日」が終わってしまったので、ここで終わろうと思う。