国際教師の日によせて(小学校編)

こんばんは。まつのです。

 今日(10/5)は国際教師の日ということで、何か書こうかと思ったのでここに至ります(21:42)。

 なんとなく回想的な内容なので、その一部と思っていただいて支障はないです。

 というか、あまり区別する気も最早ないです。

 今回はこれまで思い出に残った先生について書いていきます。それだけの内容です。

 胸糞悪い話もあります。

 

小学2年生の時の担任の先生(その1)

 「その1」があるなら「その2」はあるのかと思うかもしれないが、その通りである。恩師に序列をつけるような書き方であり失礼かもしれないが、便宜上順番をつけるために「その1」「その2」とすることにする。

 私の小学2年生の頃の当初の担任の先生である。

 その先生の授業の思い出はあまりないのだが(失礼)、教室に2台のワープロをおいてくださっていた。その当時(2000年代前半)はPCがある家庭も珍しく、PCに触れることができるのは学校のコンピュータルーム(パソコン教室)と決まっているようなものだった。(しかも、ブラウン管のWindows95だった。なつかしい。)

 しかし、教室にはワープロがあった。当然オフラインのものではあるが、ワープロとPCの区別もつかないような時分の私たちからすると、「コンピュータにさわれる」というのはとてもうれしかったし、私も休み時間には真っ白な画面に文字を打ち込んでいた。多くは意味をなさない文字の羅列だったが、良い思い出である。

 私があまりにも気に入っていたということで、個人懇談の時に先生が私の母に「ぜひコンピュータに触らせてやってほしい」とお話ししていたそうだ。

 それが端緒となったかどうかはわからないが、そこから18年後、こうして文章をPCで書いている。

 今でこそ「GIGAスクール構想」とやらで児童生徒一人ひとりにタブレット等の機器が保障されているが、当時からするととても珍しい光景であったに違いない。

 他のクラスの友人の「いいなぁ」という視線は受けていたようにも思う。

 とにかく、ありがたい経験だった。

 

 ほかにも、様々なことを「経験だ」として許してくれる先生だったと思う。実際、直接そう言った記憶はないが、そういうメッセージを感じた。

 虫を教室内で飼うことは普通なことだと思うが、私たち子どもは「毛虫を飼いたい」と言い出した(私にその記憶はない)。それも「いいよ」と快諾したそうだ。

 そして、教室の後ろのロッカーの上に黄色と黒のタイガースカラーの毛虫数匹と、桑の葉が入った飼育ケースがおかれた。みな「毛虫は大きくなったら何になるのだろう?」と楽しみにしていた。なお、元来毛虫が苦手な私は近づかなかった(好きな人はいるのだろうか)。

 

 そこで事件は起きた。まぁ、然るべくして起きたのだが。

 かゆい。体がかゆい。そう訴える児童が現れ、瞬く間に急増した。もちろんそこに私も含まれる。

 脱走した毛虫に刺されたのである。私は頭以外のほとんどに水膨れのようなものができて腫れ、痒かったことを覚えている。

 「学校で毛虫を飼うとは何事か」と一部の保護者が学校に訴え、教室内の毛虫は一掃された。それだけでは飽き足らず、それに加えて学級崩壊を放置したとしてその責任を追及し、その保護者が発起人として学級の保護者に「先生の解任を求める署名」を集めたのである。

 その怒りやすさまじく、とても「反対」といえる雰囲気ではなかったそうだ。ほぼすべての保護者の署名は提出された。今となってはただそれだけのことなのだが、先生からすると保護者から「クビ」を宣告されるわけである。(もちろん、今の自分であれば何が何でも止めていると思う)

 とてもまともな精神状態ではいられなかっただろう。

 一学期の終わりの近づくある日、先生がいなくなった。

 あとになって聞いたことだが(2021年)、その前日、家庭訪問に行く途中で学校と音信不通になったのだという。ある保護者が「先生が時間になっても来ないのですが…」と学校に電話したところ、学校からは「あぁ、お宅もですか…」と言われたそうだ。

 私は「先生は体調不良で入院した」としか聞いていなかったが、そのような裏があったと十数年後に聞いて大変驚いた。

 教室から去ったのは毛虫だけでなく、担任の先生もだった。

 

 その後、その先生はタクシードライバーになったという。

 ただ一人(かどうか定かではないが)「賛成」しなかった保護者から聞いたことだ。その家は当時商売をしていた。

 その保護者が賛成しなかったことは先生の耳にも入ったのだろう。後年、「あの時はありがとうございました」とわざわざ先生がお客さんとして現れたそうだ。その当時は「毛虫事件」があり、学級崩壊もしかかっていてとてもつらかったと話していたらしい。そこに追い打ちをかける署名である。心中穏やかであるわけがない。

 「収入は減ったけど、充実した生活を送っている。今の仕事は楽しい」などと話し、店から出ていったそうだ。

 一連の「毛虫事件」、その前後の学級崩壊傾向が問題視された先生ではあったが、自分にとってはICT機器に触れるきっかけをくれた素晴らしい先生であったと思う(私物のワープロだったのだろうが…)。「毛虫事件」だって、ともすれば私たちにとってかけがえのない学びになっていたと思う。

 どうか、フラッシュバックなどが起きず、幸せな人生を歩まれていることを願うばかりである。ありがとうございました。

小学2年生の頃の担任の先生(その2)

 一連の「毛虫事件」のあと、夏休み明けの2学期から新しい先生がやってきた。

 大学を出たばかりの先生だったと記憶している。2000年代初頭は教採の倍率も高く、講師登録をしてもなかなか仕事がなかったのだろうか。

 とはいえ、そんなことは露知らず、私たちは「ワープロは?」と聞いていた。

 いろんな意味で「え?」と思われていたことだろう。

 

 その先生は、先生でありながらも年が若く、「若者とは(大学生とは)」ということを教えてくれていた気がする。この先生も授業面はあまり覚えていないのだが、「この間の飲み会は楽しかった」とか、「仲間との旅行で酔いつぶれて下呂(誤変換です)火山をやらかした」とか、なぜかお酒で失敗したことのお話が多かった。

 学生のノリである。楽しむときは楽しめ、ということだったのだろうか。

 今となってはその話題が良かったのかどうかはわからない。当時はなんとなく「先生でも失敗するんだなぁ」と思っていたし、近年は私が飲み会に行くと、ふとその話を思い出すことがあった。そのためか、私が飲み会でつぶれた経験はそう多くない。自慢ではないが、記憶を飛ばしてしまったこともないし、今後もないと思いたい。

 酒は飲んでも飲まれるな。

 そんな楽しげな先生ではあったが、新人だったこともあり、荒れ放題になっていた私のクラスを立て直すのは容易ではなかった。ケンカにいじめにおしゃべりに。授業にならなかった。私も大変な迷惑をおかけした。

 結局同級生たちはいうことを聞かず、怒声の響いていることが多かったように思う。

 3月になっても落ち着くことはなく、なぜ落ち着いたのかもわからない。なんとなく「このままやったらあかんよな…」という思いはあったのだが、あまり覚えていない。

 その先生との別れはよく覚えていないが、年度末を迎える前に去っていったらしい。やはりというのもどうかと思うが、心身の故障があったのだという。

 あまり時間は多くなかったが、野球の話をしたことや、同級生に隠された消しゴムを一緒に探してくれたこと、帰りが遅くなると家まで送ってくれたことなど、大変お世話になった。というより、ご迷惑をおかけした。

 その後どこで勤務されていたのかはわからなかった。

 

 再開したのはそれから14年後の秋、私が大学院1回生の頃だった。

 私は学会の一環で京都府内のとある小学校の研究発表会に訪れた。

 その際の書記役をしていたのがその先生である。厳密には、隣の学校から応援に来られていた。

 名前も姿も一致した。休憩時間に恐れ多くもご挨拶に伺った。

 「ああ、よく覚えているよ」「あの時は初めて受け持ったクラスだったから、本当に思い出深い」とのことだった。それまでおかけしたご迷惑をお詫びするべきであったのだが、口をついて出てきたのは「あの時は本当にお世話になりました」だった。そこからの私の経歴をお話ししたいところではあったが、惜しくも休憩時間はおわり、閉会後私も大学に戻らなければならず、あまり多くは話せなかった。

 もっと多く話したかった。

 私はいま、放課後等デイサービスで働いている。子どもと関わるし、学校ほどではないにしろ保護者とも毎日お話しする。学校の先生ともお話しする機会も少しはある。

とりあえず終わる

 正直、ストレスしか溜まらない。

 仕事に貴賤はないというが、学校の先生はもっとストレスフルかもしれない。

 私がこれまで述べてきた先生は、結局ストレスにより学校にいられなくなってしまった。

 だからといってどうすることもできないし、過去は変えられない。

 極論ではあるのだが、私はそんな先生を知っているから、きっと明日も連携先の学校で、心から「先生、ありがとうございます。おつかれさまです」といえると思う。当然そうでなくとも心からそう言っている方も多くいるだろう。

 放課後と休日の少しでもいいから、子どもを預かり、そこで成長させることができるなら、それはそれで「学校現場を支えている」といえるかもしれない。

 私はこれからどれだけの期間、今の仕事を続けるかはわからないけれど、自分のできるところから「教員一人ひとりを幸せに」していけるように出来たらよいと思う。

 

 本当はここから先も続けたいが、「世界教師の日」が終わってしまったので、ここで終わろうと思う。

回想録番外「このあいだの続き」

こんにちは、まつのです。

 前回の投稿から1か月以上経ってしまった。本来であれば次々と書いていきたかったところではあるが、仕事が忙しかったり、そもそも書く気力がなくなっていたりして、相当期間が開いてしまった。このままでは自分自身の踏ん切りがつかないまま時間だけが過ぎてしまうと危機感を覚えたため、久々にブログを書き記した。今まで以上にわかりにくい書き方になっているかもしれないが、ご容赦いただきたい。

blog.hatena.ne.jp

 

  先ほども述べたように、前回の投稿から1か月以上も期間が空いてしまった。

  このブログを読んでいただいているということは、私の2021年7月の官庁訪問について知っていただいているだろうと存じ上げる。

 ご存知の通り、私は官庁訪問文部科学省厚生労働省の面接に挑み、惨敗した。

 かなり準備して臨んだが結果が出せなかったことにショックで、目標がなくなり無気力な日々を送っていた。言い訳でしかないのだが、何かを書くことも集めた資料を整理する気力もなかった。正直にいうと面倒だった。

 しかし、ずっと家に引きこもっていたわけではない。どれだけやる気がなかろうが、目標を見失おうが仕事はしなければならない。毎日出勤しなければならない。幸か不幸か、鬱屈とした気持ちに埋没している時間は短かった(短い)と思う。そんなことを考えようとしても考える時間などなかった。

 それでも、記事の編集画面を開くこともあり、キーボードをたたくこともあった。完成間近まで進んだものもあったが、何を書いているのかわからなかった。だから破棄してしまった。いざ書こうとするといろいろと思い出す。あふれ出てくる。

 どれだけ頑張っても超えられない壁を知ったことを思い知った。思いだけでは誰も助けられないことも思い知った。自分には実力がないことを思い知った。

 やっぱり、自分には無理なのかと思った。

 でも、振り返って生かさないことには、これまで自分にかかわってくれた人との出会いを蔑ろにするような気もする。それは善くない。

 それに、最近のストレスの主な要因の一つがこれを引きずっていることであり、どれだけバッティングセンターで打ち込んでも気持ちは晴れない。ならば消化しなければならない。

 正直割り切りたくないし、踏ん切りはつかないし、美談になんかしたくない。清々しくなんかないし腹の中は黒い。でも、納得しなければならない。嫌でも進まなければならない。

 と、いろいろ思ってきたため、それまで書いてきたものを消して新たに書き直した。

 結局は鬱憤を小出しにした見るに堪えないものだ。

 次回からは真面目に書こうと思う。

 これから書こうと思っていること
  • 誰かのために(幼少期)
  • 誰かのために(学生)
  • 印象に残った先生(小2、親たちによる「退職を求める署名」)
  • 印象に残った先生(中学、練習試合中に寝ていた顧問)
  • 印象に残った先生(高校、部活動の顧問の先生とその家族)
  • 十津川村でのこと
  • 今の仕事のこと

 

回想録No.0 「挑戦」と、「回想録」の目的

 こんにちは。まつのです。

 

 

はじめに

 前回のブログにて「回想録」を書くといったので本当に書いていこうと思います。このシリーズは何回続くかどうか決めていません。

 ちなみに前回のブログはこれ

softball360.hatenablog.com

 今回は、「挑戦」の内容と回想録の目的などを書いていこうかと思います。

 

 なお、このシリーズは「常体」で書くことを統一しようと思う。深い意味はない。なんとなくそちらのほうが締まるような気がするからだ。

 

 しばし、自分語りにお付き合い願いたい。

『挑戦』とは何か

 「挑戦」とは何だったのか。

 それは、国家公務員総合職試験(以下試験)に合格し、文部科学省に入省することである。もちろん、そこがスタートで、世のため人のため働きたいという思いがあった。詳しくは次回以降に述べたいと思う。

国家公務員総合職採用試験

とはいったものの、既に試験には合格している。実は2020年度の試験(院卒者・人間科学区分)で最終合格を勝ち取ったのだ。

 「挑戦」は終わったのでは?と思う方もいるだろうが、それは違う。

 教員採用試験をはじめ、地方公務員採用試験などの多くは「合格」=採用(内定)である。しかし、国家公務員の場合「合格」しても直ちに採用(内定)とはならない。

官庁訪問

 採用を得るためには、6/23(水)~7/6(火)の二週間に及ぶ「官庁訪問(=採用面接)」にいかねばならない。

 官庁訪問の面接は甘いものではなく、身体的・精神的にもタフでなければ勝ち抜くことができない。朝は9時から、終わりは遅ければ日付が変わるギリギリまで、休みを挟んで何度も何度も様々な職員と面接がある。

 もちろん休みを設定することも可能ではあるが、はじめの三日間は丸一日拘束されることが多い。もしも早く終わるようなことがあれば(初めから終了時刻が予告されている場合を除き)、それは不採用となることが非常に多い。

 この面接を何日も繰り返し(第1~第5クール)、7/6(火)の正午、晴れて内々定が出されるのである。

www.jinji.go.jp

 逆に言えば、官庁訪問にいかなければ採用を得ることはできないのである。

 せっかく7.8倍(2021年総合職、これでも過去最低)の試験を勝ち抜き、合格者に名簿登載はされても、「無い内定」という憂き目に遭うこともありうる。というか、そんなことは珍しくない。

 よって、受験生は必死で官庁訪問対策を行うのである。

nordot.app

 私は、昨年度の官庁訪問で「無い内定」だったため、今年再挑戦した。

 合格者は3年間合格者名簿に登載されるため、3回まで官庁訪問に挑むことができるのである。

 面接だけなら何とかなるだろうと思う方もあるだろうが、そこからが本当の競争である。2021年度の合格者は1834人で、採用されるのは半数以下の798人と発表された。

www.asahi.com

 各省庁でも倍率は異なる。人気の省庁となれば倍率は跳ね上がる。総合計20人弱の採用予定数に対して150人超の受験生が集まることもある。

 余談ではあるが、人気の省庁は受験者が多く集うものの、そうでないところでは省庁の側から受験者に電話をして「ESも作らなくていいから来てほしい」ということもあったらしい。

 私にはそのような電話などなかった。そもそも文科省や現職の関係での厚労省にいきたかったからあまり支障はないが。

 官庁訪問は終了した。しかし、私は結果が出せず「無い内定」となった。

 官庁訪問の詳細については「回想録」シリーズで述べようと思うので、この辺で終わっておきたい。

「回想録」の目的

 官庁訪問でよくいわれるのは、「結果はダメでもそれを通じて様々なことを学べる」ということだ。そう話す戦友もいる。そういって結果の振るわなかった人を慰めてくれる採用担当の方もいる。

また、今回結果が振るわなかった方も、まずは本当にここまでお疲れ様でした。
公務員を志した時期、試験に向けて準備を重ねてきた期間も人それぞれだと思いますが、目標をもってチャレンジしてきたということ、その事実は決してなくなりません。きっとみなさんの人生の糧になります。
来年以降また公務員を目指して試験に挑戦する方、民間企業に進まれる方、地方公務員など別の形で公のために働かれる方、学問の道にすすまれる方。
皆さんの進路はさまざまだと思いますが、どの道に進まれてもご自身の信念・譲れない想いを忘れずに。
皆さんと、この国をよりよくしていく同志としてそれぞれの場所で奮闘していけたらと思っていますので、これからもよろしくお願いします。

 (これは官庁訪問前の公務員試験合格発表時のもの)

 しかし私はひねくれ者のようで、「得られたものよりもなくしたもの、見失ってしまったもののほうが大きかった」と感じた官庁訪問だった。何がしたいのかがわからなくなってしまった。

 だが、それでいいのだろうかと思った。過去の決意さえも否定するような気がした。

 だから私は、これまでの日々に価値づけをするために、官庁訪問に至る日々を振り返ろうと思う。

 これが「回想録」を書き始めた理由である。これをいくら書いても決意した思いを取り戻せないと感じたら、来年度の受験はやめて、完全にあきらめようと思う。

 取り戻せたら、その時から準備を進めようと思っている。

 さて、官庁訪問に至る日々と書いたが、関係しそうなものはどんな些細なことでも思い出して書こうと思う。

 さて、だいぶ尻切れな感じもするが、今回はこの辺りで終える。

 回数を重ねれば作文も上手くなるだろう。乱文失礼いたしました。

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2019年3月、文科省に職場見学に行ったときの一枚

報告メモ

注)今日は卑屈です。

 

こんにちは。まつのです。

 

 

 最近、私のこのようなツイートを見た方がいると思いますが、特にその内容についてこのメモでは説明しません。別の機会に書くかもしれません。

 知っている方は「あの事だな」と思うだろうし、知らない方は「なにかするんだな」と思われたと思います。むしろ、このメモをみて「なにかしていたのか」と思う方もいるらっしゃるでしょう。

たとえ知らなくても、読んでくださっている方の人生に一切支障はございません。それだけは保証いたします。

 

 その結果報告をします。

 2021年7月7日午前0時現在(正確には7月6日正午)、関係機関からの連絡はありませんでした。よって、この挑戦は失敗しました。

 「自分には夢がある」だの「世のため人のためになりたい」だの言っていましたが、結果がこれです。スタートラインにすら立つことができませんでした。

 かなり一生懸命準備を重ねてきたつもりでしたが、手も足も出ませんでした。正直、ショックは大きかったし、この先しばらくは努力も忍耐もなにもしたくなくて、頑張ることさえバカバカしく思えてくるのですが、立ち止まることさえ苦痛に感じるので、明日からでもどうしていくのか方針を考えようかと思います。

 この挑戦は一人三回分権利があるのですが、来年度の分(三回目)が残っています。ラストチャンスを使うのかどうかは、今は結論が出せません。

 その理由は、何のために挑戦するのか、何を成し遂げたいのかがわからなくなったからです。だんだん、「承認欲求を満たすだけ」の挑戦になってきていて、目的がおかしくなってしまっていました。本当は誰かのためになりたかったはずでした。

 だから、承認欲求を満たしたいだけならほかで出来るかもしれません。もしも、それに挑む理由が確立できたなら、その時から挑戦すると思います。

 

 とりあえず結果報告まで。敗北したことを報告します。

 

 これ以後はここに至る流れを書いていこうかと思います。

 未定ですが、「回想録」をつづろうと思っています。

 

 そして、挑戦に成功された方には祝福を。おめでとうございます。

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挑戦失敗が確定した日の月

 

映画を見た休日

久々の更新(1年以上ぶり)です。

まつのです。

 

今日は日曜日で仕事が休み。京都府は緊急事態宣言が出ていて、どこに出かけるわけにもいかないので、家で映画でも見ようと思いました。今回はその感想でも。ネタバレは含みますがストーリーの紹介などは雑な感じです。

 

映画「魔女見習いをさがして」

見た映画は「魔女見習いをさがして」

これは、テレビアニメ「おジャ魔女どれみ」シリーズの20周年を記念して製作された作品で、昨年(2020)11月に上映されました。

www.lookingfor-magical-doremi.com

 なぜこれかというと、私が当時のシリーズをリアルタイムで見ていたというのと(とはいえキャラ名も含めほとんど覚えていない)、「何やら教員志望の学生の登場人物がいる」とのことで気になっていたためです。

 

見終わってみて

とりあえず全部見た感想としては、「これは映画館でみたかった」。

 私は基本的に映画は映画館で見る派ですが、去年の11月は仕事やソフトボールが忙しく、また謎の高熱を出すなどして日程があわず、この作品は見ることができていませんでした。激しく後悔しています。

 実在の土地や景色をそのままアニメ化しているところが多くて、それだけでも満足できました。特に近鉄がスポンサーであったというところから、近鉄特急のシーンのクオリティがめちゃくちゃ高くてびっくりしました(笑)。まさか、京都駅での発車メロディーVVVFインバーターの駆動音、富野荘~新田辺間の木津川橋梁まで描かれているとは、ものすごく凝っているなと思いました。近鉄ファン歓喜です(ネタバレごめんなさい)。もちろん、ほかの岐阜への旅での名古屋駅、JR各線の車両などもよかったです(笑)

 

と、ここまでくるとただの鉄オタが興奮しているだけになるので、ここからは違う話をします。

 

「長瀬ソラ」の迷い

この物語の主人公は、「長瀬ソラ」「吉月ミレ」「川谷レイカ」の3人です。

詳しいキャラ紹介はHPを見てください。

 

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「長瀬ソラ」(「魔女見習いをさがして」公式HPより転載)



 その中で、一人気になった登場人物がいました。それこそが「長瀬ソラ(以後「ソラ」)」。前述した「教員志望の学生」です。

 ソラは教育大学に通う4年生で教員採用試験を控えていました。

公式HPには「愛知県出身の大学4年生。年齢は22歳で、「おジャ魔女どれみドッカ~ン!」をリアルタイム視聴していた。周りの意見に流されがちで、自分を表現することが得意ではない。教師になる将来の夢を抱いているも…。」と紹介されています。

 そんなソラには悩みがあったのです。教育実習先の一人の男児との出会いによるものでした。彼は発達障がいがあり、みんなと同じように学ぶことが難しい。いわゆる「手のかかる子」です。実習中に作文を書く授業をした教生時代のソラは、原稿用紙に絵で表現していた彼に文字で書くように指示しますが、彼は嫌がり教室を抜け出してしまいます。彼に対する指導がうまくいかないことに悩むソラ。それに対して指導教官の先生は「彼ひとりを見すぎているのではないか。全体を見るべき」とソラに指導しました。

 結局、ソラは実習期間中うまく指導できなかったようで、大学に戻ってきてからも彼の原稿用紙の切れ端に書かれた絵を持ち歩いていました。

 「教師になっても上手くやっていける気がしない」とソラは言いましたが、それはおそらく「自分の力量では、学校の教員になっても特別なニーズのある子どもへの手厚い支援をすることができないかもしれない」という気持ちの表れなのだと思います。その後も事あるごとに「特別支援教育」に関するテキストがでてきて、ソラが勉強している描写があります。

 その後、ソラは彼から手紙をもらい、「発達障がいのある子どものための塾(確かそんな感じ)」に通う彼と出会います。(おそらく学習塾と放課後等デイサービスが一緒になったような施設だろう。)スタッフから「ここでは学年の別がない。人生を通して支援をすることができる」と言われ、ソラはハッとします。

 ソラは教員の道を選ぶのかどうか…

 

教員や教育が若者の話題になっている

 と、ここまで「魔女見習いをさがして」を教育、特に教育大生のソラに注目して書いてきました。いかがでしょうか。私の主観も少し入っていますが、かなり「学校教育」に力を入れた作品であるとお分かりいただけたと思います。特に、教員採用試験に挑む教育大生なんて、全ての大学生のうちの何パーセントでしょうか。「ああ~」と刺さる人は教育大生くらいのようにも思えます。

 しかし、この作品はかつての子ども、今の20代半ばを主にターゲットにしていると考えられます。そのため、全国公開をするのにこれほど共感しづらい悩みのある人物にしてよかったのでしょうか(もちろんOLやフリーターの二人に刺さった人はいるだろうが)。

 それでも全国公開されました。公式HPによると第43回モスクワ国際映画祭の公式上映作品に選出されたことからも、かなりの高い評価を得ているようです。

 

 このことから、少し極論ではありますが、若い世代(それ以外の世代も)の間で「教育」や「教員」が関心ごとになっているのではないかと私は思っています。

 これまで、「学校」を取り上げたアニメやドラマは多く制作されてきましたが、「金八先生」など青春モノが多かったように感じられます。それが最近になって、より深いところにまで踏み込んだものが出てきている感じがします。「青のSP-学校内警察・嶋田隆平-」なども例として挙げられるでしょう。

 こんな風潮もあって、「長瀬ソラ」というキャラクターが生まれたのかもしれません。それに、「発達障がい」など教育界のホットトピックがあげられても、社会に受け入れられたのだと私は思います。「教員になるかどうか迷う」というのも今の教育大生にはあるあるです。ものすごく教育大学に詳しいスタッフがいたんだなぁと、問題意識の高さに驚きました。

 

 

 

 と、こんな感想を私は持ちました。かなりうがった見方ですね(笑)

 当然「ソラちゃんかわいい!」とかの感想もありますが、それはみんな思いそうなので省略します(笑)

 

さて、本当に長くなったので、そろそろ絞めます。

 

日本中の「長瀬ソラ」にむけて

 私は「教員一人ひとりを幸せに」したいと思う仲間と一緒にいる。

 そこでは「学校教育への疑問」「学校の働き方改革」や「教師になろうかどうか迷う」などといった話がよくでる。しかし、これは私が通っていた大学の友達同士ではできなかった話である。きっとソラも同じように悩んでいて、大学の仲間にも打ち明けられないでいたのだろう。

 もしもそういう悩みがある人がいるのなら、我々は会って話を聞いてみたい。何ができるかはわからないけど、どんな話でも聞いてくれそうな人がたくさんいます。お気軽に話しかけてください。

 そして、「なろうかどうか迷っている人」に対して「ぜひ教員になって」と心の底からいえるような環境になって行ってほしいし、そうしたいなぁと思っています。

 

今日はこの辺で。乱文失礼しました。

 

最後に、「魔女見習いをさがして」本当に面白かったです。

 

まつのとソフトボール②

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2017年2月頃、合宿地の広島県三次市にて

 こんにちは、Teacher Aide 奈良支部長のまつのです。まつのとソフトボールの第二弾を書いていきます。二回目は大学の部活動での話です。

ちなみに、昨日(24日深夜)に投稿したものはこちら。高校生の頃の話をしています。

softball360.hatenablog.com

 

 さて、高校時代のリベンジを果たすため教師を目指し、奈良教育大学へとやってきた私ですが、迷わず男子ソフトボール部に入りました。その時は部活しかしたくないという、いわゆるBDK(部活大好き教員)よりも、質の悪い教員を目指していました。今となっては考えられないですね(笑)

 

 

 さて、大学のソフトボール部の前に別の話をします。私はソフトボールの指導者になりたいと思っていたことは述べたとおりですが、そのためにソフトボールの知識をつけないといけないと思っていました。

 当時、大学のソフトボール部は関西学生リーグに所属しており、そこか全日本大学ソフトボール協会の規定だったか覚えていませんが、とにかく「チームに一名以上の準指導員資格をもつ者をいれること」というルールがありました。そのため、誰かが資格を取りに行くことになりました。ソフトボール指導者を目指す私にとって願ってもないことであったので、その講座を受講することにしました。

 そこで、ウインドミル投法(腕を一回転させて投げる方法)やスラップ(所謂「走り打ち」のことで、地面にボールを叩きつけ、高く跳ね上げる打法)、バントなどの指導の仕方を学びました。ほかにも座学でソフトボールの歴史や細かなルール、体罰などについての講習もありました。

https://www.japan-sports.or.jp/Portals/0/data/ikusei/doc/guide/Softball_Coach1.pdf

 そして、私は「ソフトボール準指導員」の資格を得ました。その後資格を更新し、ソフトボール指導員(現:コーチⅠ)」となっています。また、知ることが楽しくて審判の資格(第三種、都道府県大会程度なら可能)も得ました。時々母校の練習試合に審判として呼ばれます。完全なガチ勢ですね。ソフトボールに関する知識についてなら、関西学生リーグの中なら一番詳しい自負がありました。ルールについて聞くためだけに電話をかけてくるような後輩もいます(笑)

 知識をつけるだけでなく、社会学としてソフトボールについて考えたこともありました。1回生の頃、「専修基礎ゼミ」という授業で「なぜソフトボールは女性のスポーツといわれるのか(うろ覚え)」という5000字ほどの長ったらしいレポートを書いたこともあります。すなわち、「男は野球、女はソフトボール」という図式に挑んだのでした。残念ながらそのファイルが見つからず、どのような結論にしたかは覚えていませんが、学問としてもソフトボールを追求しようとしていました。

 ちょうどその授業で、早稲田大学の中澤篤史先生の著書「運動部活動の戦後と現在: なぜスポーツは学校教育に結び付けられるのか」に出会いました。結果として、この著書との出会いが私のソフトボールへの見方がかわる一因となったのです。しかし、これに気付いたのはこれを読んで2年後の3回生になってからでした。

www.amazon.co.jp

 

 2014年4月、私は男子ソフトボール部に入りました。

 これまで、私はただ「勝つこと」のみを良しとしていたため、当時のチームの「楽しむ」ということについてはなじめなかった覚えがあります。また、高校時は勝つためならば何でもしていた(相手チームの配球やヒットゾーンの調査などの合法的なものから、サイン盗みなどの汚いことも。なお当時は汚いとさえも思っていなかった。それが当たり前だったから。)ため、大学で大きなギャップにあたりました。

 私は高校でやってきたことを大学でも再現しようとすることに腐心するのみで(というよりしみついてしまっていて抜けない)、チームにはあまりなじめていませんでした。楽しむといったことは頭から抜けていました。

「かくあるべし」という思考から抜け出せていなかったということですね。当然、うまくはなりませんでした。

  • 仲間の引退と「部活は道楽や」という言葉の意味(3.4回生)

 うちのチームは3回生で引退するか、4回生まで続けるかという選択をする選手が半々ほどいました。そのため、3回生の秋季リーグが終わった後に同期がすべて引退してしまい、私はひとりぼっちになりました。なぜ自分はやめなかったのかということについては別の機会にします。
 一気に人数が減り、人数を必要とするような練習(ランナー付きノック、試合形式ノック、シートバッティングなど)ができなくなりました。人数もギリギリ9人いるか、多くても11人というほど厳しい状態になりました。私は仲間が引退する以前はDP(指名選手、野球でいうところのDHのようなもの。厳密には異なる)として出場するのみで、守備機会はほとんどありませんでした。下手くそだったので。
 しかし、そうなれば自分も守備をしなければなりません。そこで後輩たちは、冬の間たった一人の先輩のために特守をしてくれ、私はフライ捕球やゴロ捕球、送球動作などの細かな技術の向上に努めました。もちろんバッティングもです。
 すると、少しずつではあるものの、上手くなったのです。打撃の向上は顕著で翌年の春季リーグで大学生活初のホームランを打てました!!

 

このように続けてきたことで、自分の心境が変わってきました。

 

ただ純粋に、ソフトボールが楽しい

 

 ということでした。うまくなって、多くのことができるようになったためでもありますが、先にも挙げた中澤先生の本の内容を思い出したということもあります。同書においては、スポーツの本来的な意味は強制されないということであり、余暇を楽しむということだ(そんな感じ)というようなことが書かれていました。

 以前から、ソフトボールは楽しいと感じていましたが、それが変質し、より強くなったのだと思っています。特に高校生のころはとんでもない下手くそで、自分がプレーすることによる喜びや楽しさはほとんど感じていませんでした。楽しいと感じるのは「勝利」、ただそれだけでした。ただ、これを読んでいる方はお察しの通り、それは勝利至上主義を呼び、ソフトボールそのものの楽しさを消してしまいます。

 そのような価値観が変わり、勝利を度外視して楽しめるようになったのでした。勝利を度外視できるようになったのは、そもそも人数が少なく、試合をするのもやっとだというチーム事情になったことも一因します。ただ、試合ができるだけでうれしい。勝っても負けても楽しい。そんな子どものような気持ちでやっていました。

 また、高校時代の監督の言葉「部活は道楽や」を思い出し、より楽しもうとする意識が強まりました。当時は「部活はあくまで道楽なのだから、勉強もしっかりしろ」という意味でしかとらえられていませんでしたが、別の意味があることに気づきました。それは、

 

部活は道楽なのだから、楽しくやらなければならない

 

 ということです。楽しくやらないと長続きしないし、やっている意味がないのです。せっかく好きなことをやっているのだから、楽しくやらないと。これ以降、ずっと「一にも二にも、三にも楽しく」ということを意識してやっています。
「楽しむ」ということは、ソフトボール(それ以外でも)を追求し続けた者がたどり着くことのできる、一つの「境地」だと思っています。
 
 その後、4回生の秋季リーグ最終戦を勝利で終えました。私はマルチ安打で大満足でした。一応、私は院進予定ではありましたが引退を迎えたことになっています。
 

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写真はイメージです
 
そして、それが奈良教育大学ソフトボール部の実質的な最後の試合となりました。
 
  • 後輩たちに花道を(大学院生期)
 私が4回生になったころから、慢性的な人数不足で試合はおろか、練習さえも満足にできない状態が続いていました。トラブルも起こり、少ない人数がさらに少なくなりました。私は何とかしてやりたいと思い、自分の大学院の入学式の日に後輩たちとビラを配るなどもしました。しかしその後は大学院の授業やフィールドワーク、修論が忙しくて何もしてやることができませんでした。ほかのメンバーも教育実習や教員採用試験などでソフトボールどころではなくなり、活動再開とリーグへの復帰の可能性は限りなく0になりました。
 自分だけが楽しんだだけで、後輩たちには試合さえさせてやれなかったことに、本当に申し訳なく思っています。
最後の試合から2年半が経ち、「後輩たちに楽しませてあげる場を作りたい」という私の思いはとても強くなりました。自分が後輩たちにしてもらったように、自分がいつか恩を返したいと思い、せめて引退試合だけは用意してあげたいと思っていました。
そして私は一つのイベントを企画しました。それは「2019.20卒部員特別引退試合」でした。今年の三月上旬に、私が所属している地元のクラブチームに依頼して試合相手になってもらうということでした。クラブチームの方は大いに賛同してくれ、試合が行われることになりました。しかし
 
雨天中止
 
もう笑えます(笑)どこまで運が悪いのか(笑)中止になった午後には快晴でしたよ(苦笑)
 
というところでつらつら私とソフトボールについて書いてきました。ほぼ自分の日記みたいになってしまいましたね。
 
とにかく言いたいことは
 
後輩たちとのソフトボールは楽しかった
 
ということです。
 
 私のソフトボール人生(競技スポーツとして)では、思い残すことはありませんが、ただ一つ、願いが叶うならば、一緒にソフトボールがしたかった。そしてあわよくばみんな笑顔でプレーしたかった。このことがどうしても心残りです。
 
 またいつか、グラウンドで会いたいものです。
 
さて、これらが私の大学卒業についての所感です。長々と書いてきましたが、「まつのと○○」シリーズはまだ続けようかと思います。何ならまだソフトボールで書くことがあります。
 
さて、卒業式も控えているのでそろそろ失礼しますね。
 
2020/03/25 2:55 自室にて

まつのとソフトボール①

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 こんにちは。Teacher Aide 奈良支部長のまつのです。もうすぐ卒業(明日)になるので、何か今の気持ちを書き残そうかと思ってこのブログを書いています。徒然なるままに書いているので、あまり読み応えのあるものになるとは思っていません。内容重視の方はブラウザバックを推奨します。

 

 このブログで書いていこうと思うのは、私とソフトボールについてです。各種SNSでフォローしていただいている方はお分かりかもしれませんが、私はソフトボールが大好きです。野球ではありません。ソフトボールなのです。決して野球が嫌いなわけではないのですが、ソフトボールの魅力にハマってしまっています。

高校1年生の頃から始めたので今年で10年目を迎えます。ベテランですね(笑)ただしうまいわけではなく、所謂「下手の横好き」です。とはいえ、大学生活のうち、かなりの力をかけてやっていたのは事実です。ソフトボール抜きに大学生活は語れないと思ったのでこのブログではソフトボールについて書きます。

 ただの趣味ではなくて、ソフトボールとの出会いが私を教育の世界へと導いたと思っています。そのようなことも書きたいなと思っています。

 今回はソフトボールの詳しい話はしようとは思いませんが、今後ソフトボールそのものの話をしていくこともあるかもしれません。では、さっそく始めましょうか。

 

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私がソフトボールと出会ったのは高校一年生の頃です。当時通っていた高校の男子ソフトボール部がインターハイに十数年連続で出場するというほど有名で、「ここに入れば自分も全国大会に行けるかも」、というような不純な動機で入部しました。

 私は小学生のころに少し少年野球をしていたこともあって、まぁすぐに慣れられるだろうと思っていました…

 

 しかし、現実はあまりにも異なっていました。野球とソフトボールは似ているものの、全く異なるスポーツでした。スピード感、力強さ、戦略性などがあまりにも異なっていました。毎日が驚きの連続で、先輩方のプレーにただただ目を奪われていました。また、勝利に対して徹底的に貪欲なチームでもあり、ルール違反に限りなく近いあれこれを平然としていることも多々ありました(笑)

 相手よりも上回りたいという「王道」を目指すのではなく、相手をどのようにして倒すかという「覇道」を進むチームだったような気がします。

 

 少し話はずれますが、ソフトボールには野球に存在しない浮き上がる変化球「ライズボール」があります。よくテレビでも「プロ野球VSソフトボール」として紹介されることがあるため、御存じの方も多いかもしれません。プロ野球選手がソフトボール選手のライズボールにきりきり舞いとなっていることが多いですね(笑)

中学生の私は「ボールが浮き上がるわけがない。あんなボール球に手を出すわけがない」と思っていました。

 

⇒いやこれが振ってしまうんですよ!ストライクに見えるんですよ!気づいたら顔の高さのボールに手を出して情けなく空振りをしてしまうのです。本当に浮き上がるように感じます。

大学時代の後輩(投手)によると、ある程度錯覚もあるようですが、打者の目は完全に欺かれます。やればわかります。

 

関係ないですが、ソフトボールに関する動画を見つけたので貼っておきます。

www.youtube.com

 

というような、驚きの日々を過ごしました。

 

 私が二年生の夏、レギュラーメンバーの活躍でインターハイ出場が決まりました。私はというと、相変わらずのへたくそで、なんとかベンチ入りはできたものの記録員として試合のスコアをつける係でした。正直、試合に出たいというより、雰囲気に圧倒されていたところもあったので「出られなくてよかった」と思っていました。あとは宿舎のご飯が美味しかったこともよく覚えています。

 閉会後、新チーム発足とともに、私たちの時代が始まりました。絶対にインターハイに行くんだという気持ちが強かったことを覚えています。

 

しかし

 

 翌年6月、私たちはインターハイには行けませんでした。予選でライバル校に大差をつけられコールド負けを喫しました。惜しかったということはなく、全くといってよいほど歯が立ちませんでした。私は結局レギュラーの座をつかむことはできませんでした。チームの危機に、何もできませんでした。

 十数年連続でインターハイに出場していた伝統を途絶えさせてしまいました。

 日々、とても大きなプレッシャーがありました。私はどうしても力んでしまい、三年生になってからは練習試合でたった一本のヒットを打つこともできず、三年生時の年間打率は.000でした。

ただ、楽しくなかったわけではありませんでした。いつもいつもソフトボールのことを考えてしまっていたので、大変ではありましたが楽しんでいたのだな、と思います。

 

  • 決心

 インターハイ予選に敗退した後、やはり気持ちの整理をつけるのは大変でした。今でも時々その悔しさを思い出すことがあります。

どうすれば、この悔しさを晴らせるのか。

そう悩んだ結果、一つの決心をしました。それは…

 

自分が教員になってソフトボール部を率い、リベンジを果たそう!

 

ということでした。その思いだけで受験勉強をし、奈良教育大学へと入学したのです。「どんな教師になりたいか」「理想の教師像は」「どんな生徒を育てたいか」というイメージはありませんでした。むしろ、苦しい高校生活だったので先生に対する見方は非常にネガティブなものでした。そんな自分がよく「先生一人ひとりを幸せに」などといったものだ。

いやー、若い(笑)今の自分とは全く違うことを考えていたのですね(笑)

 

 さて、というところでそんな高校生活(ほぼソフトボールのことしか考えていない)を送り、とんでもない夢を持った者として大学生活を始めました。

 

大学生活とソフトボールについて話そうと思っていたのですが、だいぶ予定とは異なりましたね。とりあえず、もう遅い時間なので、いったんこの辺りで。

 

2020/03/24 2:26 自室にて